核兵器禁止条約の採択と、それを推進した核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)のノーベル平和賞受賞が勇気と希望を与えた2017年。ICANの受賞を受け、2018年は核兵器廃絶への歩みを大きく前に進める年です。授賞式があったノルウェー・オスロから帰国したばかりのICAN国際運営委員の川崎哲さん(ピースボート共同代表)と、核兵器禁止条約をつくる国連会議に出席した日本共産党衆院議員の笠井亮さんが語り合いました。司会は同党参院議員の吉良よし子さん。(まとめ・荒金哲 写真・田沼洋一)
吉良 ノーベル平和賞の受賞、おめでとうございました。授賞式はいかがでしたか?
川崎 式自体は非常に厳かで、いたってシンプルなんです。ノーベル委員会委員長がICANの活動や核兵器禁止条約について言葉を述べられて、ICANのベアトリス・フィン事務局長と被爆者のサーロー節子さんが演説をする。少し歌があるというだけです。
印象的だったのが、とにかく会場の拍手が鳴り止まないことです。二人のスピーチは、ICANのみんなで作ったものです。一言一言に拍手が起き、すごく勇気をもらいました。われわれが発してきたメッセージが世界に届くことを実感できました。
その前後、一週間にわたり関連行事がたくさんあって、思い出せないくらいです。被爆ピアノを日本から運んでのコンサートもありました。広島・長崎の原爆資料館から取り寄せた資料の展示もノーベル平和センターで行われています。
日本の市民社会がオスロにドンと
笠井 展示は1年間くらいされるとか?
川崎 次の平和賞が決まる1年後までですね。他にも被爆樹木の種が広島市長によって寄贈されたり、約30人の被爆者がピースボートのツアーで現地に行きました。参加して思ったのは、広島と長崎の声がオスロに満ち溢れて、日本の市民社会のプレゼンス(存在)がオスロ中にありました。日本は、核兵器禁止条約に参加していませんが、政府が参加していないだけで、市民社会としてはドンといた、それが実感です。
吉良 私もサーローさんの演説は、被爆の実相、ヒロシマ・ナガサキの声を世界に伝える歴史的なものだと感じましたし、本当に感動しました。被爆2世でもある笠井さんは授賞式をどうご覧になりましたか。
笠井 核兵器禁止条約の採択に大きな役割を果たしたICANが受賞したことを心からお祝いします。本当にわが事のようにうれしいです。東京には、「おりづるの子」という被爆二世の会があって、私も日本被団協(日本原水爆被害者団体協議会)のバッジをつけて、国会活動をしています。
私はネットで授賞式をライブで見ていました。残念だったのは、せっかく日曜日のゴールデンタイムなのに、地上波や衛星放送での生中継の放送がなかったことです。条約に反対の日本政府への忖度があったのか(笑)。
川崎さんの顔も何度も映りました。ICANのみなさんには、国連会議の場などで何度もお会いしましたね。その方たちが授賞式に並んで。被爆者の田中照巳さんや藤森俊希さん、広島・長崎の市長、国連会議のホワイト議長やオーストリア大使の顔も。一緒に条約採択にがんばった人たちが一堂に会している姿に、条約をつくるため取り組んだすべての人たちへの授賞だと感じました。
廃絶は我々次第と
吉良 フィン事務局長は、条約を「一筋の光」と表現されました。お二人は条約の意義をどうとららえていますか。
川崎 今回の条約は、初めて完全に核兵器を例外なく禁止するものです。廃絶に向けた道筋を目指すという意味で画期的なものです。核兵器は、国際法上、違法なものとなった。核兵器の終わりの始まりです。
この条約は、おそらく多くの人が思っていたよりも、かなり速いスピードで成立しました。2016年の今頃、私はもうすぐ禁止条約ができるといっていたんですが、周りは「いやいや、そんなことは」と(笑)。
これだけ早く条約ができた背景にあるのは、現状への危機意識です。トランプ政権を見ても、米朝関係を見ても、きわめて危険な状況にある。急いで核兵器禁止の道を確立せねばという意識が国際社会に生まれました。
これまでは、禁止条約など、できっこない理想論だといわれ続けてきた。授賞式のメッセージでも、ICANのメンバーで話し合い、核兵器はなくせる、それはわれわれ次第なんだと発信しました。
笠井 国連会議で条約が採択されたとき、サーローさんが「世界は変えられる」と話されていました。私も被爆二世として核兵器廃絶を訴えたとき、「それは理想論だ」という声もよくありました。人間の作ったものは人間の力でなくせる、まず禁止を。それが形になって核兵器を違法化し、「悪の烙印」を押したのが、今回の条約ですね。
演説実現に尽力を
笠井 私たちが国連会議に出席した際、ICANの皆さんにはとてもお世話になりました。
吉良 志位和夫委員長が、国連会議の場で初めて演説するときに、尽力いただいたそうですね。
笠井 そうなんです。私たちは核軍縮・不拡散議員連盟(PNND)のメンバーとして、出ました。会議では、市民社会の発言の時間は、政府代表の発言の後、一日の会議の終わりの15分しかない。それを一人3分で発言する。その短い時間でも、日本政府が議場にいないなかで、日本から出席した唯一の政党として被爆国民の声を届けたいと相談したところ、川崎さんたちが奔走してくださいました。
実は、3月の会議の2日目に演説できるとなったんですが、政府関係の演説が長引いて、時間がなくなってしまった。そうしたら、ICANのみなさんが走り回ってくれて。次の日の午前に演説できることになりました。