田村智子(党副委員長・衆院東京比例予定候補)
4日は恒例の「新春街頭演説」。今年は急きょ「能登半島地震救援募金」のよびかけに変更しました。有楽町駅前は冷たいビル風が吹きつけましたが、被災地の寒さはどれほどか。そして1月に起きた大災害で、思いおこさずにいられなかったのが1995年1月の阪神・淡路大震災です。
私はこの震災後に国会議員の秘書となりました。「住宅支援と個人補償を」と市民のみなさんは懸命に国会要請にとりくみ、党国会議員団も質問と要請をくりかえしていました。ところが政府は「私有財産の国だから」と自己責任を押し付ける立場に終始したことを、鮮烈に覚えています。市民の運動は決してあきらめず、超党派で「被災者住宅支援法」がつくられました。阪神・淡路大震災の被災者は支援を手にすることはなかった、しかし、政治を大きく動かしたのです。その後も災害のたびに、支援の拡充、新たな支援策へと、被災地の運動と結んで、私たちは政治を動かしてきました。
95年の大震災から30年近く、東日本大震災から10年以上がたちます。さまざまな教訓を活かしたとはとてもいえない現実に忸怩(じくじ)たる想いです。被災した方々の苦しみに応える政治、さらなる絶望をつくらず、希望が届く政治へと動かさなければなりません。
(「しんぶん赤旗」2024年1月12日付より)